「グローバル・イングリッシュ」という言葉があります。

ネイティブ・イングリッシュとは違い、世界中で話される共通言語としての「英語」のことです。

英語はいったい、誰のものでしょうか?

「もちろん、アメリカ人やイギリス人、カナダ人などネイティブの言葉でしょ」と言われると思います。でも、この「グローバル・イングリッシュ」という観点で見ると、「英語」は英語を話す人々すべてのものなのです。

元国連事務次長の明石康さんの英語は、決してネイティブのような英語とはいえません。


しかし、明石康さんの英語は世界で通じます。どの国に行ってもあの発音で話されているのです。明石さんの英語 は、必要にして十分な英語なのです。決してネイティブっぽい喋り方をしなくとも、人々の尊敬を勝ち得、「あいつは英語が日本訛りだから」と不利になるよう なことはなにもないのです。

英語を母国語として使う人の数は、およそ3億人と言われています。そして、英語を母国語として以外で話す人の数は、およそ20億人。

つまり、英語ネイティブの方が少数派なのです。かつては日本語訛りで英語を話すことを「恥ずかしい」と感じる風潮がありました。なんでも、ネイティブのように話せるのが一番正しいという考え方です。今でもそう感じる人は少なくないと思います。

しかし、何十年も日本に住み日本語が堪能な外国人が話す日本語はどうでしょう? たとえばデープ・スペクターの日本語はどうでしょう? まったく日本語ネイティブが話すようには聞こえません。しかし彼が話す日本語はほぼ完璧に我々には理解出来ます。

それ以上、何を求めることがあるのでしょうか? 「デープ・スペクターは何十年も日本で活動しているのにどうしていつまでも、外国人っぽい発音しかできないんだ」と目くじらを立てる必要はないでしょう。

通じる英語。

まずは、それが大切なのではないかと思うのです。

もちろん、単語だけをならべて適当な文法で話しても、通じればいいんだということが言いたいわけではありません。より複雑なことを話そうとすれば、どうしてもより複雑な文法や語彙力が必要になるわけなので、当然といえば当然ですが。

ただ、日本語なまりだからとか、ドイツ語なまりだとかで恥じ入って英語を使うことをためらう必要はないのです。

しかし、いざネイティブを前にすると萎縮します。

旅行に行くと、たまに相手がノンネイティブであることをまったく気にせず、ペラペラと英語で話してくる英語ネイティブもいます。こちらが「??」な顔をしていると、だんだん会話が気まずくなり、こちらも話すのが恥ずかしくなってしまうことがあります。

でも開き直っていいんだと思います。

どうせ、ネイティブのようには話せないのだから。でも、理解してもらえる、通じる英語を話していくことで、やがてあなたの知性や思想、考えにネイティブも気づきだし、会話が弾むことにもなるでしょう。

これから先、英語を話すノンネイティブの数はどんどん増えていくと思います。一昔前はまったく英語が通じなかった国でも、20年後にはかなり通じるようになっていて驚くこともあります(タイなどはそうです)。
そういう意味で、ますますグローバル・イングリッシュの考え方は重要になってくると思います。

グローバル・イングリッシュは、完璧なネイティブ並の英語を話せるようになるための「学問」ではなく、異なる言語を話す人々がコミュニケーションを交わすための共通「道具」なのです。
ただし、だからといってそれは適当な英語を話しましょうということではありません。冒頭で紹介した明石康さんの英語をよく聞くと、文法力や語彙力、言い回しといったものは非常に洗練されたものです。決して、いわゆるカタコト英語というわけではないのです。

そこには、英語をみっちり学習された上での英語表現があるのです。なので、学習をおろそかにしましょうとか、文法も適当で行きましょう、発音もLとRの違いはそんなに気にしなくていいです、というわけではありません。

カタコト英語でも、堂々とフィリピン人と商談を進めていくベトナムのビジネスマンを見たりすると、あるいは私自 身が学校の韓国人スタッフと英語でやり取りをしていても、お互いの言語を知らない人達同士が「英語というツール」を使ってコミュニケーションを取っていけ るということは、計り知れないプラスを我々にもたらしてくれているのだと実感します。
あと、フィリピン人の先生も英語はペラペラですがなぜかあまり萎縮せずに教わることができます。フレンドリー で忍耐強いフィリピン人の正確だからかもしれませんし、同じアジア人だからという安心感があるのかもしれません。そんな意味でも、まずフィリピン・セブ留 学で英語を伸ばし、その上でネイティブの国に行って英語をさらに磨くというルートは良い選択ではないかと思います。